平景清,平忠清之子,又称藤原景清,通称上总七郎,兵卫尉,信浓守。
人物简介
就是在与木曾义仲的北陆之战、一之谷合战、坛浦之战中大为活跃的平家武者大将。
生平事迹
屋岛合战之时,他也曾因为看不下去阪东武者的横暴,愤而跃上敌人的军船,创写下连斩三名武者的事绩:话说当时美尾屋十郎的座骑正要举起前蹄踹平景清时,说时迟、那时快,他赶快的补了一箭把美尾屋十郎的马给射倒,接下来,平景清马上操起长刀,开始追杀敌将美尾屋十郎,将之生擒而扬名立万。在平家於坛浦之战为源义经歼灭后,平景清就落跑到了摄津水田的三宝寺,投靠叔父大日能忍去了。不过他也衰到家了,在大日能忍被暗杀後,平景清立即被人出卖 (大日能忍的弟子跑去向源家告密) ,平景清就被源氏以『恶七兵卫』之名通缉。建久六年 (1195) 景清就这样被上洛去供养东大寺大佛殿的源赖朝的手下和田义盛给活逮,直至翌年的三月平景清绝食自杀。後世的歌舞伎《坛浦兜军纪》将当时京都崛川御所住在五条阪的白拍子阿古屋送做堆。阿古屋还怀了平景清的儿子。
日文介绍
藤原 景清(ふじはら の かげきよ、生年不详 - 建久7年(1196年)?)は平安时代の武士。藤原忠清の子。平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平姓では平景清とも呼ばれているが、藤原秀郷の子孙の伊势藤原氏(伊藤氏)で、伊藤景清ともいう。通称、上総七郎(上総介忠清の七男であるため)。信浓守(1180年)、兵卫尉。「悪七兵卫」の异名を持つほど勇猛であった。平安末期における治承・寿永の乱(源平合戦)において活跃した。『平家物语』巻十一「弓流」において、源氏方の美尾屋十郎の錣を素手で引きちぎったという「錣引き」が特に有名である。坛ノ浦の合戦で败れた後に捕られ、预けられた八田知家の邸で绝食し果てたといわれるが异说もある。「悪七兵卫」の「悪」は悪人という意味ではなく、「悪党」と同様に勇猛さを指すものとされるが、坛ノ浦の败戦後に自分を匿った叔父の大日房能忍を疑心暗鬼にかられて杀害してしまったためにそう呼ばれるようになったとの伝承もある。ただし近年は能忍の死因は病死または事故死とする说が有力。実在したとはいえ生涯に谜の多い人物であるため、各地に様々な伝说が残されているが、いわゆる平家の落人として扱われる事は少ない。このためか各种の创作において主人公としてよく取り上げられている。