嘉永七年十一月二十七日(西元1855年1月15日) 因
皇居失火、
地震、
黑船来航等灾异而
改元安政元年(1854年) 佩里再度前来江戸湾,缔造日美和亲条约(
神奈川条约)
安政6年久留岛 通胤(くるしま みちたね、文政11年(1828年) - 安政6年11月30日(1859年12月23日))は、豊後国森藩の第11代藩主。第8代藩主・久留岛通嘉の子。第9代藩主・久留岛通容と第10代藩主・久留岛通明の弟。子に通靖、通简。官位は従五位下、信浓守。
嘉永5年(1852年)2月16日、兄で先代藩主の通明が病を理由に隠居したため、その後を継いだ。翌年、ペリーの来航で国内が混乱すると、通胤は幕府に対して诸藩の意见を広く求めるべき、と荐めている。しかしそれが原因で幕府に疎まれ始め、安政元年(1854年)に勤王的な藩士2名が脱藩すると、幕府から嫌疑をかけられることを恐れて老臣5名を辞任させ、幕府に谢罪するなど、开明的ではあったが小藩さながらの力の无さを露呈させてしまった。安政6年(1859年)11月、32歳で死去し、子の久留岛通靖が後を継いだ。法号は叡泰院。